- 2015-10-09 (金) 15:19
- その他
ぶじに福岡に戻りまして、現在は後かたずけといただいておりましたメールの返信、10月11月のスケジューリングに追われている最中にネットから飛び込んできたひとつのニュース。「とらや 赤坂店休業」。
福岡の田舎者でも、「虎屋さん」 といえばおいしい羊羹、個人的には舟和の芋羊羹も好きなんですが(笑)、とらやさんは東京出張帰りのお土産ではいつもお世話になっております。
出張のたびに、ある方へ出発の挨拶。出張の合間には、「元気にやってるか?」 の電話をいただき(いやいや、最後にあってまだ2・3日しかたってないし!(爆))、福岡に戻ってご報告と挨拶、、、、が日課になっているんですが、いつも鑑定中にいただく電話では、
「体調には気をつけなさい。せっかく会いにきてくれた方々に失礼だからね。」
「友達が多いことは結構だし羽根を伸ばすのもいいが、夜の飲み歩きはほどほどにしなさい。」
・・・・・あの~もう、自分は40歳なんですけど(汗)
「お土産、いっぱい買ってきますよ!」
「たくさんはいらない。お前さんはケチだから、お土産は一番高いものを買ってきなさい(笑)」
と、毎回出張にいくたびに念をおされます(苦笑) ・・・・もう体が食べ物についていかず、茶碗はんぶんのご飯が限界。40年間、人に会いつづけた人が、もう人に会うのがキツイと苦笑いで話す姿。買っていったお土産もほとんど食べれないから、気を使って大げさに奥さんを呼んでは 「ケチの○○がね、こんな良いもの買ってきてくれたぞ」 と喜んで渡しては、あとから人に配っているのも知っているんですけどね、、、、、
そんな「とらやの羊羹」 さんの、本店がはいったビルが建て替えをするらしく、その際に 「十七代 黒川光博さん」 の挨拶状がこれまたすばらしい。
赤坂本店、および虎屋菓寮 赤坂本店は、10月7日をもって休業いたします。
室町時代後期に京都で創業し、御所御用を勤めてきた虎屋は、明 治2年(1869)、東京という全く新しい土地で仕事を始める決断をしました。赤坂の地に初めて店を構えたのは明治12年(1879)。明治28年 (1895)には現在東京工場がある地に移り、製造所と店舗を設けました。
昭和7年(1932)に青山通りで新築した店舗は城郭を 思わせるデザインでしたが、昭和39年(1964)、東京オリンピック開催に伴う道路拡張工事のため、斜向かいにあたる現在地へ移転いたしました。「行灯 (あんどん)」をビルのモチーフとし、それを灯すように建物全体をライトアップしていた時期もありました。周囲にはまだ高いビルが少なかった時代で、当時 大学生だった私は、赤坂の地にぽっと現れた大きな灯りに心をはずませたことを思い出します。
この店でお客様をお迎えした51年のあいだ、多くの素晴らしい出逢いに恵まれました。
三日にあげずご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。
毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、お母さまがこっそり隠れて見守っていらっしゃったということもありました。
車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。入院生活に入られてからはご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。
このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。
3年後にできる新しいビルは、ゆっくりお過ごしになる方、お急ぎの方、外国の方などあらゆるお客様にとって、さらにお使い頂きやすいものとなるよう考えています。
新たな店でもたくさんの方々との出逢いを楽しみにしつつ、これまでのご愛顧に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
虎屋17代
代表取締役社長 黒川光博
とらやHPより https://www.toraya-group.co.jp
名前に恥じない挨拶状。
名前にあぐらをかかない、この姿勢。
この名前は、とらや皆さんの誠心誠意で守られてきたんだなぁ~・・・・・
これ読ませてもらうと、やっぱりここの羊羹を買わせてもらう機会があってよかったなぁ~としみじみ感じます。
方向音痴の自分は、「都立大学」の駅から羽田空港までは一度、渋谷まででて、そこから山の手線で浜松町まで、そこからモノレールで羽田空港までと昔ながらのルートじゃないと確実に迷子になってしまいます(汗)
渋谷の駅から、渋谷の街を眺めていますと、
大きなクレーンがビルの合間に立ち並び、地球にどんどん穴を掘っている姿。
「あぁ、こうして”東京”も、”東京”であろうとしているんだなぁ~」
そう考えると、とても感慨深いものがございまして。
「ピーピー、キャーキャーと東京ではしゃいでいたのも、もう20年も昔なのか・・・・」
あの時はまだ、カラオケで高得点をだしたら 『PHSを無料でプレゼント!』 の時代でして。
お金がない自分たちは必至でカラオケボックスに通いつめてたなぁ、、、、そこから永遠に電話代をはらいつづけることを義務づけられる、携帯会社の策略とも気づかずに(笑) ピッチを毎日、鞄の中にいれて大人の気分を味わっておりました。
取引先の百貨店への、クレームのお詫びに池袋駅から電車にのって・・・・・
池袋駅からのった電車で速攻、寝てしまい・・・・・
起きて、慌てて駅名を確認すると電車はまだ 「池袋駅」。
「あれ?なんだ、まだ電車、動いてなかったっけ・・・・」
なんて寝ぼけていたんですが、、、、川越で折り返して肝心な自分を降ろさずに池袋駅まで電車が無事に到着したんだと気づいた瞬間、あわててピッチをみると数えきれないほどの上司からの着信をみたときの恐怖・・・・・・・・
渋谷駅にいる間、いろいろ思い出しました。
いやー懐かしいなぁ~あれから20年かぁ~
・・・・・って、あんまり自分は変わってないかも(汗)
そして、そこから、想い出はここ10日ばかりのことへ。
初めてお逢いさせてもらった方々や、二回目、数回目の方々。また、出張鑑定をはじめた7年ほど前から毎回のように顔をみせてくださる方々の、顔、顔、顔・・・・・・
一人一人、思い出せる人を順に思い出していると・・・・・自分が20歳を目前にした19歳の時、その時いつも遊んでいた友だちが餞別にと渡してくれたカセットの中の一曲、ミスチルもカバーしていた尾崎豊の、『僕が僕であるために』 がフト頭に流れてきます。
つづく。
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