- 2025-09-04 (木) 1:32
- その他
「神道では”修行”という言葉が存在しない。」
と言われていますが、自分もそう思います。
「修行」とは「悟りを開くことを目指して心身を鍛錬することを指す」とAIが教えてくれましたが、そもそも仏教の言葉とは別の意味で、
「神道では”修行”という言葉が存在しない。」
何故なら、魂そのものはすべての力の源であり、そこを分解すればいろんな能力や可能性や未来、創造的な世界を秘め、新しいものを生み出す力の源。それは使えば使うほど、年齢に関わらず輝き続けるものだからです。なので、神道とは別に悟りを目的としてなければ、仏教的な悟りとは違って魂がそこにあって、魂を磨いていく。魂の力を増幅させる・・・・という考え方ではなく、
「最初から与えられたものにすべてが宿る。」
という考え方に近いのかな?
ではなぜ、「すべての力や可能性を持っている魂があるにも関わらず、物事が上手くいかないか?」と感じた時には、神道的な考えでいくと、
「そこに罪穢れがこびりついちゃってるから。」
めちゃくちゃ眩しい魂に、いろんなものがこびりつくと光がとおりにくくなる。何かを被せると輝く面積が狭くなる。
なので、一日の朝と夜に潔斎(けっさい)を行い、朝は顔を洗って清々しく一日を始める。夜はゆっくりと風呂に浸かり目を閉じ、一日を振り返ったり内省してみたり、ぼんやりと頭を空っぽにしたりと、、、、寝る前に心を癒してくれる。これも潔斎で、罪穢れを剥がす行為。
6月と12月にも「大祓式」を行い、ついつい生きているだけでもれなく付いてきてしまう罪穢れを茅の輪くぐったり、人形(ひとがた)に罪穢れを移して祓ってしまおうという儀式。1日・15日には供物を替えたり榊を交換したりと、これも月ごとのプチリフレッシュ。
「常に罪穢れを祓いまくろう」
という、言い換えれば
「魂の輝きを保とう」
とする、神道らしい考え方なんです。くぐるだけでリフレッシュ。言霊あげてリフレッシュ。時には自分に見立てた人形に自分の罪穢れをなすりつけて(?)リフレッシュ。
まさに他力本願、限りなく消極的な積極的魂の輝きの維持装置、仕掛けがいっぱいなのです!が・・・これもあって、自分は神道が大好きなんです!神様も好きですけどね。物事が上手くいってない時や心が弱っている時、ツラい時。「滝に打たれろ」「座禅を組め」と言われれば、正直、心が折れてしまいます。そんなに自分は強くはない。
さて、次に気になるのが
「日常で気づかない内にこびりついちゃう、”罪穢れ”はどこからやってくるのか?」
という話になります。
つづく。

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