「この世界が好き」
意味不明な言葉ですが、「この世界」とは一言でいえば自分がオギャァー!と母のお腹から生まれ、今日の、今ここに至るまで。
またこれから先も、自分の死に方まではわかりませんが、この世を去るまでの間に五感や第六感を感じてきたすべて。
それを自分は「この世界」と表現させてもらっています。
性分的に人間同士、「合う・合わない」は勿論ありますが、この世界では自分自身以外の「同じ時代を生きる同級生たち」が存在してくれていて、自然があって、山があり、川があって田畑があって。動物も植物も虫も草木も、驚くほど種類が多く個性豊かで。緑の色も、空の色も海の色も、すべて同じ日は一生に二度もない様々な姿をみせてくれる世界。
慌ただしい毎日の中でも、ふとした瞬間に心をより添わせれば「あぁ、生きているんだな、、、」と感じさせてくれる、この世界。
心から我を無くせば、一瞬にして自分自身の存在はその他すべてに同化し、無我となって、この世界と同化する。
同化した時の安心感と幸福感は50歳になっても、未だに色あせることはありません。
独りぼっちは寂しいはずなんですけどね。同じ独りぼっちでも、自分は「この世界の一部だ」と本気で感じると、寂しくも悲しくも感じない・・・・本当に不思議です。
若い時は、若さゆえの独りよがりか一人でセンチになっては自ら寂しくなったり、悲しくなったりしたもんですが・・・・そもそも、その純粋さもなくなってきたんでしょうね。もう年齢的に体力も気力も昔のままではいられず、夢中になることも年々、減ってはきましたが(苦笑)むしろ、同化した際の安心感は年齢と共により重みと厚みを増していっているような、、、、、書いてて余計にわからなくなってきましたが、まぁ、そのまま言葉にすればそんな感じです。
懐かしい過去も嬉しかった想い出も思い出せば苦い想い出もたくさんあって。
でも、それもすべてこの世界。この世界のなかで自分は生き、この世界のお陰で生かされている。
今までの過去と、それとあわせた現実の遠くをみれば更に年老いた自分しか想像できず、なかなか見えませんが。自分の心の内を丁寧にしっかり覗けば、魂の奥底でゆらめている儚くも強い、光ある未来を含めた、この世界。
この世界は自分にたくさんの縁と、たくさんの感動を与えてくれます。
だから自分は、この世界が好きです。
この世界を思う時、じんわりとした温かみと懐かしさと心の底から湧いてくる無味無臭の純粋な感謝だけの気持ち。
その気持ちを抑えることが出来ません。
そして「神様」と呼ばせてもらっている、目に視えない存在。
この存在は尊くあたたかく、この世界すべてに散りばめられたものであり同化しているもの。
また、この世界を大きく包んでくれている視えないものだと感じています。
だから昔から八百万って呼ばれているんですよね。そこらじゅうにいらっしゃるんですよ、神様は (´ー`)
広く捉えれば、文化や風土・風習でさえ神様が宿っていると考えています。
赤子は無邪気、邪気が一切なく神様扱い。神道では亡くなった人間はすべて神様扱い。日本固有の神道・古神道とは本当によく出来ています。国や国体が文化の土壌となり、その文化の中で新しい神様や人は生まれ、育まれる。また人が亡くなれば神様として祀り、まっさらな祖霊舎のなかで新しい神様が生まれる。
アニミズムが源流なのですが、こんなにはっきりと体系づけられ残っているアニミズムは世界中でも多くはないのではないでしょうか。
日本の神様には、「個性」があります。それも八百万(やほよろず)と表現されるぐらい、数えきれないほどの個性です。
物も100年経てば「付喪神」。大事に扱った道具が神様になるなんて、本当に素晴らしい国だと思いませんか?
記紀に書かれた多くの神様はそれぞれに神話(物語)があり、そこにいらっやる神々様はいきいきと人格を宿し、神様によって性格も違う。
もちろん、性格も違えば考え方や価値観も違う。
神様も感情豊かに表現され、その業績や罪穢れも残されているので、自分たちは神話を知る・感情移入することによって、いろんな価値観を知り、自分なりに解釈し、学ぶことができる。
日本の春夏秋冬がこの国を豊かにしてくれているように、この神々様の個性のお陰で、自分たちの心を豊かにしてくれている気がしています。
これから先、今を生きる若者やまだ見ぬ国の宝、まだこの世に存在すらしていない子供たち。
次の時代の子と大雑把にまとめますが、その子らを思い浮かべた時、自分と同じようにこの国を愛し、この国と一体になって息づいている神々様を愛してくれるのだろうか?
それぞれの自分の世界を愛し、生きていることだけで、その事実だけで感謝をもってくれるのだろうか?
本当に親が子を愛し、子が親を敬える関係はどれぐらい続くのだろうか?
1人でも虐められない、自ら命を絶つ子は減っていくんだろうか?
何の力もない中年の自分が、今の世の中でどんな役に立つのだろう?
魂を削って背中をみせてくれた、こんな自分を育ててくれた師匠は自分に何を残そうとしてくれたのか?
人生の折り返しはとうに過ぎ、神様とご縁ある人生の方が長くなってきた今、凡人である自分は大抵の物事を積み重ねてきた訳でもなく、本気でひとつのことを努力し続けてきた人生でもありません。数えれば足りないものだらけの中であっても、残った人生で今を生きる大人として自分にしか残せないものを残すことを決めました。
個人的な思いとして、「この世界」への感謝だけではなく、例え小さな力でも恩返しがしたい。
そしてまだやれる事ややりたい事を含め、これらをやり抜くことが自分の使命であり、この世に生を受けた責務だと感じています。やれる事は限られているのですが、自分がいなくなっても誰かが継いでくれる、自分の思いを一緒になって紡いでくれる「同じ時代を生きる同じ時代の同級生」を越えた「仲間」と呼べる方々との想いを一緒にのせて、次の時代への種として残していきたいと考えています。
それは次世代への種であり。
具体的には、祈願や御朱印が受けられる神社であり、神様が集う神祭の場であり、美味しいものが食べられる場所であり、心や体が癒せる場所であり、縁あった人との他愛のないお喋りから、一人静かに自分の世界に浸っていただく場所。そこでは鑑定が受けられ、いろんな方が先生になれるワークショップが行われ、また受けられる場所です。
どなたでも入ってこれるように、表は普通のcafe、実のところコーヒーが飲める「神社」、、、と自分の中では勝手に位置づけています(笑)
表のコンセプトは、「心と体に栄養と学びを与えられるカフェ」、裏のコンセプトは「神様に会えるカフェ」です。
福岡の1号店は場所も8月に決まり、10月のオープンを目指して。
2号店は5年以内に東京、3号店は10年以内にフランスのニースにオープンする予定です。
・・・・が、今の自分の力ではまだまだ足りません。自分の想いを支え、後押ししてくれる仲間と一緒に志をともにしてくださる方々を募集しております。
→CAMPFIREコミュニティ「ようこそ!村雲村へ(旧村カフェ)」
最近は、支援してくださる仲間のお陰で自分の大きな過ちに気づきました。
今までは、「神様が思う世界(場所)になりますように。」との祈りの流れのなかで、この場所もそうなって欲しいと思い、気づけば自分が一番嫌う「神様まかせ」になっていたことです。どこかで現実と真正面から向き合うことが怖かったんだと思います。後はね、やれる一番の自信のあることだったのかも知れない。
そういう場所が必要だ。
そういう場所を作りたい。
そうなるように全力を尽くす。
・・・・・神様、これでどうですか!
本来は、そこに強い意志があって、小さくとも眩い魂の輝きがあって、一寸の虫の腐れ根性があって・・・・はじめて成り立つ「神様との二人三脚」を、単なる祈り(想い)だけで上手に流れようと考えていた自分の未熟さに仲間のお陰で気づきました。
「強い想い」があって行動となり、それに呼応するのが神様のお立場。妙に神様慣れしてしまっていた自分は、この原理原則を忘れておりました。
「祈り」が悪い訳ではなく、「強い想い」だけで祈り倒しても、それで動かれる安っぽい神様は存在しません。
やれること全部、やり倒して最後にゆだねるのが「祈り」という手段のひとつ。
「想い」は行動の源であり、大切なもの。その手段の前に、やれることはまだまだ多いのです。
「60分祈る時間があれば、祈りは10分にして後の50分は現実を努力しなさい」。亡き師匠の声が聞こえてきそうです。
・・・・オープンする前で良かった(-_-;)
とにかく取り留めのない想いを、思いのまま書き殴ってしまい、無駄に長くなってしまいましたが。
今の自分の心境を9割方は綴れたと思います。
荒唐無稽な話と計画ですが、生きている間は実現させます。
どうぞよろしくお願い致します。
CAMPFIREコミュニティ「ようこそ!村雲村へ(旧村カフェ)」

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