- 2014-10-09 (木) 8:05
- その他
昨夜の皆既月食、本当に綺麗でしたね〜ごめんなさい。予告していた「『計画』『意味合い』『目標』」の流れについての記事が延び延びになっておりますが(汗)
ごめんなさい。これはまた改めて、次回の日曜日の後に書かせていただくことにします。
その前に・・・・・・
昨日の記事、「人は何のために生きているのか」・・・・・・自分も少し気になるところがあり、筆をとってみました。
さて大海原の上、見渡す限り海はるか上に一舟の小舟があっての。その舟は浮かび、波のうねりもあっても本来は浮かぶものじゃの。それとは別の力で、また同じ空間のなかで朝日が生まれ、沈めば月は照り、大風も大雨もあれば心地よい風も吹く。その舟の上、何も考えずとも夢をみておっても、にぎる櫓に力いれても、それは舟というものを持ち、その上に乗る人というものの自由にある。
しばらく漕げば灯台の灯りあることに気づく。否、これはすべての人に申せることではない。目をつぶりて心の中に灯台あるものおれば、目を開きて遠くに輝く光、太陽の光に反射する灯台みつける者。また月夜の雲ひとつない夜空に灯台の光みつける者。星のまたたきよりそれを指針とする者。これも人それぞれじゃの。中にはひときわ力強く漕ぐ舟についていくもの、途中であわさる者、途中で離れさる者、途中より己の道をみつける者。人の数だけ道もあるということ。
ある者は、目指し漕ぐ先に島をみつけるやも知れぬの。島に上がるもよし、舟にとどまり様子をみるも良し、思いあってか別の島をさらに探しにでる者もある。どれも良し。
島の大きさもそれぞれじゃろう。思うていた以上に広き島。反対に思うていた以上に小さき島。そこに上がれば舟を捨て、陸が手に入るが、手にはいったところで次はその者がさてどうするかの。まずは舟と同様、次はその地にあった小屋を建てねばらなぬの。小屋が建てられ、眠る場所ができれば林に入って果実もとめる者、砂浜に家を建て貝や魚をとって暮らすもの、山に入ってケモノを狩るもの。
また土を耕し畑とする者、皆を集めてヒを作りアゼをつくって田んぼをつくるもの。これも人それぞれじゃの。
すべてにおいては本人が決め、本人がどこまでで満足をおぼえ、何を夢みて何を目的とするのか。すべては自由、わしらは風をおこし雨をふらせ日をのぼらせ月を照らす、いえば自然そのものじゃの。社と呼んでわしらを降ろし、また昇らせること人にできても自然そのものを作ることはできまいし、人がつくったもの、それは限りなくわしらに似せたものでしかあるまい。
わしらと共に生きておるかの。日の光をあび、風の声をきき、海に感謝し山を愛しておるかの。裸でおるのは寒かろう、舟の者は沈まぬ舟をつくり、小屋があるものは見合った小屋を作っておるかの。何のために生きておるのかは、自由を与えておる以上、ぬしらそれぞれが決め、それぞれが生きねばならぬ。ぬしらは人じゃろう。人が生きてこそ、ぬしらが呼んでおる人生と申すものじゃろう。本能だけでいきる葉虫でもなく、そこに情がある犬猫と違うて、人として生まれたで人生と呼んでおるのではないかの。中には葉虫や犬猫として生まれたかったと嘆いてみても、ぬしらはその険しさを知らぬだけであって、葉虫が動物として生まれたかった、動物が人として生まれたかったと嘆いて終わる一生でも意味は少なかろうし。
わしらはいつも側におる。わしらの力の続く限りは共におり力が必要な時は分け与え、月とし火とし、水とし木とし鉱物とし土として日として存在しておろう。それを忘れて涙ながらに訴えておっても、その姿をみておるわしらの方が辛くもあるということ一つ知ってくれれば、今の○○(自分の名前です)をはじめまた多くの者の心の目ももう一つ開きくれると思うがの。中綿津見
自分は神様のおっしゃる「舟」は 『自我』 と捉えてみました。(陸に上がれば、それが「小屋」になるだけの話かな・・・・・)
「灯台の光」、それはいつも例えで神々様が 『希望』 や『可能性』 に例えているもの。
そうすると「島」とはさしずめ、本人の目標やら目的としている地点のことかも知れません。自我はどのような場所であっても、一生自分たちから剥がすことはできませんから、陸に上がれば小屋を作って、舟が小屋に変わるだけの話。
「小屋」 は大きくも小さくも作れて、自分ひとりのものではない。それが 『家族』 のような気がしてます。
『家族』 とは異性同士で結婚、もそうですが大まかに言えば 「強い絆や縁で繋がった者たちの集まり」 。たとえば、両親や祖父母。または同性愛者も。今の時代はペットも含まれるかも知れませんね。
人も含めた万物はすべて「自然=神様」から生まれています。
だから最後は、自然にもどっていくだけ。
「自然」=「古来から日本民族が崇める神様」 という事実は間違いのないことだと思いますし、雨は恵みの雨として自分たちや作物に潤いを与えてくれる反面、今回のように大雨になれば土砂も崩れ人の命が容易く失う。
海もそこから塩もとれ、人間にはなくてはならない母なる海ですが海底の大地が変動すれば津波となって多くの命を奪う。土砂崩れにしても同じ、今話題になっている火山の噴火にしてもそうですよね・・・・・・・
だから古来より、人は「自然=神様」を崇め、敬い畏敬の念をもって接し、日ごと月ごと、一年を通して「神祭」 という形で神様を喜ばせ、慰め、慈しんできたんでしょうね。
「人は何のために生きているのか」の話とちょっとずれちゃいましたが、そうなってくると疑問に思いませんか?
『畏怖する自然(神様)』 と 『神社に祀ってある神様』 との違いって?
これについての考察は、「御嶽山の噴火」とあわせてまた次回とさせていただきます。
- 次の記事: 御嶽山の噴火と神の国、日本
- 前の記事: 人は何のために生きているのか
コメント:4
- いもこ 14-10-09 (木) 11:25
-
もっと良い状況にしたいと思う反面、環境が変わる事に怖い自分がありました。今回の記事も自分に当てはめると改めて考えさせられる事が多大にありました。
神様が仰る船の行く末、色々な行程があり前へと進むしかない、自然を感じる事は大事で生かせてもらっている。美味しい食べ物、水、お日様自然の恵み。自然に還る。
環境が変わったら、新しい環境におのずと馴染んでいくもので、また自分が環境を変えることが出来る。
なんのために生きているかわからなくなっても、生きられる環境を大切にしたいですね。 - 千恵 14-10-09 (木) 13:04
-
>「人は何のために生きているのか」の話とちょっとずれちゃいましたが、そうなってくると疑問に思いませんか?
>『畏怖する自然(神様)』 と 『神社に祀ってある神様』 との違いって?
>これについての考察は、「御嶽山の噴火」とあわせてまた次回とさせていただきます。
↑深いですね…。村雲さんお記事・見解とっても楽しみです。 - しまけん 14-10-09 (木) 23:23
-
私の場合、
「人は何のために生きているのか」
を考えていくと、
「人は何故存在するのか」
という疑問が湧いてきます。さらに考えていくと
「地球は何故存在するのか」
「宇宙は何故存在するのか」
「神様は何故存在するのか」
という風に考えが広がっていきます。
にしても神様(特に真の神と言われる12柱の神々様)は、自身の存在というか意識?
について疑問に思われたことは無いのですかね?一度尋ねてみたい。。
常々思ってることですが、なんかこの世界って、壮大な「地球シミュレーション」
に思えてきます。神様専用のゲームみたいなもので、タイトルは「シム地球」みたいな。
地球を創り、天地を創り、人を創り、天地自然と調和しつつ人類を反映させていくことが目的?
基本ルールは「自由」だけれども、あまりにも調和を乱している場合は、それに気づかせるために
地震・津波・台風などで警告を与える。それでも気づかずにこれ以上無理となった場合はぽちっとリセット。
(これまで何度リセットされてきたのでしょうね。。)
なんか変なコメントしてすいません。
茶碗洗って歯磨いて寝ます(笑)。 - 管理人 14-10-11 (土) 12:02
-
いもこさん
やっぱり、勇気をもって「あがく」ことでしょうね。脱サラして第一次産業に従事される方が多いのですが、やればそんな簡単な話ではないと思いますがそれでも以前に比べて活き活きされている方も多い。自分は何のために生きているのか、、、、、、時々は問いかけることも本当に必要だと考える今日この頃です。
千恵さん
霊能力者と一言でいっても数が増えれば増えるほど、さまざまなタイプと人間性があります。自分はことさら人間性には自信はありませんが、一般的にTVで作られた霊能者を追い求められる方々が多いのは少し困ります・・・・・・。「本物であれば、今私が考えていることを神様に聞いて答えてください。」 と言われれば苦笑いしかできないんですけどね。
しまけんさん
その手の映画ならたくさん存在しているんですけどね(笑)真理が理解できない以上は、その考えで間違っていないと思いますし・・・・・最近、久々に日本昔話の 『花咲じいさん』 を観ましたがあれも同じですよ。犬をかわいがって、亡くなった後も大事にして、灰にして蒔いたら殿様から褒められて・・・・・隣の爺さんはその過程を一切、抜きにして結果だけをみて、結果だけを手に入れようとして殿様を怒らせておりました。真理を知るにはやっぱりプロセスが大切なんでしょうね。凡人の自分には到底、到達できる域ではございません。洗濯物でも干してきます(笑)