- 2021-08-02 (月) 23:09
- 神様
コロナに関しての神示(開闢の祭①)から始まりまして、7月の14日・17日・27日と当日、集まってくれた皆様方、そして全国のどこかで一緒に祈って下さった、知ってる人も知らない人も、ありがとうございました(^^)
神祭途中は筆を執らせて頂きましたが、実は最終の筆はまだ執ってないので、まだ終わった感覚もなく・・・・
また27日以降も、夏越の大祭があって、とりあえずそっちに全力集中!!・・・ってことで、まーなんとハードな一週間だったことでしょうか・・・・これは自分でなければ倒れていますよ、きっと。
ま、詳しくはもう少し心が落ち着いてから書かせて頂くとして。
今日は神祭後の今の心境を。
なんだか、気づかない内にはじまり、気づかない内に終わりました(*´Д`)
師匠の神祭にも参加経験のあるY君が、
「ホントにこれでいいんですか?大丈夫っすか?」
「なんか今までと全然、違う感じがするんですけど・・・・」
「・・・ってか、明確に何のために祈ればいいんですか?」
「ブログの”開闢の祭”ってネーミング、誰が考えたんですか?神様がそうおっしゃってたんですか??」
う~~~ん、、、、気持ちは良くわかる。自分も同じ感覚でした(笑)
ただ、大丈夫か、そうじゃかいかと言われれば・・・・大丈夫じゃないかな?(´∀`)
・・・そんな気がする。そんな気しかしない。
だって師匠の時の祭と比べようがないしね!
お祭りに正解なんてないのさ!
やりたいから、やる。祈りたいから、祈る。
こんな訳のわからんことを自由に、意味もなくやれる自分たちって凄くないかい?(爆)
本来は、「ただ祈りたいから神様つながりのご縁で集まった、感謝する会」でもよかったかも知れない、、、、が、むしろ神様の方がそれで終わらせるわけではない。。。。
神様から、祭りの主旨を伺い(ここだけは外したくない)、それに合わせて神様からのご意見を頂戴しつつ、『神祭』の構成を組み立てる。
契りの盃?みんなで乾杯??
欲しかったのは、盃。これはすぐに揃えられたし、もう何度かは神祭も手馴れてきた仲間たち、少ない人数で一人一品を持ち寄り、サクサクと準備とお供え物を並べて祭りはスタート。
「数少ないブログの読者でも、その中で信心に篤い方たちも数名、祈ってくれてると思うから。とにかく少し早めに祈りはじめて、21時は祈りの中で手を合わせよう。」
難しかったのは、よくよく何度も頂いた神筆を読み直し、それぞれあぁでもない、こうでもないと議論を重ね、ひとつわかった事は「コロナ収束の祭りではない」というだけ。
「祭りは終わらないよ。それは、今も昔も変わってはいない。お前たちが何かに気づいて、何かを始める。神様と呼ばれる存在に今世で縁があって、それで結ばれ、また神世の祭も人世の祭も和でつながっている。あとは考えなさい。」
要約すれば、こんなメッセージを受け取った感覚でした。
まさに狐につままれている感じ。
だから、思い切って、
「神祭の始まりの日(終わりの日)を新しい自分たちの人生のスタートとしよう。」
そう心に誓ったお祭りでした。
だってさ、人生ってよくよく考えたらお祭りやん?(´∀`)
賑やかでいて、周りに知らない人がいっぱいいて、知ってる人に偶然出会えばいつも以上に縁を感じて。それぞれいつもと違う服装で多少は着飾っていて。お祭りには神様がその中心にいて、ドンと構えててさ。踊りで神様を和めつつ、屋台で自分たちも和んで、それと背中合わせで、厳粛な空気感の中・・・非日常のなかで、神様と向き合って、暗くて静寂な中に一粒の光をみつけて、その一点をめがけて限られた時間の中で、ありったけの想いを込めて。
そして、あの終わった後の賑わいの余韻の中での寂寥感、、、、
出会いがあれば、別れもあって。
「ここで、また会おう」と例え約束したとしても、この雑踏の中で会えないこともあり。たとえ会えなくても、なぜか不思議とㇲッと納得のいく諦めもあって。
まさに、人生はお祭りです。
個人的な現実、日常では大祭の準備と後片付け。
この炎天下の中、身も心もボロボロになって。
「あ~ようやく今年も夏の大祭が終わったねぇ、、、クソ暑かったわ。」
と、毒づく中であと何回、自分は夏のお祭り、冬のお祭りを迎えることが出来るのだろうかと秘かに数え神様と共に歩く日々。
これは別に神職だけの特権でもなく、皆さんに言えることだと思うんですよね。とにかく、一瞬一瞬を無駄に生きたくないし、だからと言ってガチガチに前のめりで生きたくもないし。
一つ、はっきり言えることは
「適度に一生懸命、適度に手を抜いて」
は苦手ですね(-_-)
・・・よくよく考えたら、そんなに賢い生き方ができる人間でもなく、器用でもない。だから適度な人生はゴメンです。
だいたいなんだよ、「適度」って。自分の中で始まって、自分の中で完結させる、いえばほどほどの人生って、ほどほど何も残らない人生のことじゃないか・・・・・。
覚悟を決めて準備して、全力で祈って、余韻に浸りながら惰性で後片づけをして。
苦労も努力も必要だけど、それが喜びに変わる瞬間。
苦労や努力を喜びに変わるきっかけが、「自然に湧き上がる感謝」というものだと、今回のお祭りで分かりましたし、感謝が多い人生であればあるほど、人に優しく出来ます。
スサノオ様や須勢理姫様、天神様や彦様と、名を名乗られる存在からすれば、たとえ自分たちが100年200年生きようとヒヨッコの中のヒヨッコでしょう(;´∀`)
その中でも盃を取らせて頂き、中身は現在の国の法律に則り「甘酒」でしたが(結局、子供扱いやん!)何かしらの契りを結べただけでも良い祭りだとしみじみ感じました。
人(師匠)を介して神様と呼ばれる存在とご縁を育ませて頂き、おそらく死ぬまで、あの世にいっても形はどうであれこの国に生まれてきた以上、神様とのお付き合いは終わらないでしょうし、奇しくも今は東京オリンピックももうすぐ終わりますが、この国に生まれてよかったと、実感中。
昔、酔った勢いで
「神様は普段、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
とお尋ねした時、
「わしらは日常のいたる所に存在しておる。足元に落ちておる石っころにも、主の心の中にもの。」
と言われた言葉を思い出しています。
その時は、師匠の筆の冗談かと・・・神様、また適当なこと言って誤魔化しちゃって・・・・って思ったんですが、今になってちょっと分かりました。神様、嘘つかない(笑)
とにかく一日一日を大切に。
この世に生まれてきた以上、いつかあの世にいくまでは後悔しない毎日を過ごしましょうね(´∀`)
ps.今から溜まったメールを順次、返信いたします
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コメント:4
- パイ生地 21-08-03 (火) 22:29
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こんばんは
わしらは日常のいたる所に存在しておる。足元に落ちておる石っころにも、主の心の中にもの。」
神様って人の姿で後光がさしててみたいな感じでしたが
私も最近思いました
空 や 小さな花 や 山 や風
この世にある言葉のないもの 私がいるんだ と
思ったらそこにいるような
そうしたら 毎日見て 感じて 話しかけて 反省して
以前とは私の中の神様は形を変えましたが
私が感じようとしたらいました
特別ではなく私も神様の一部
神様を感じても鬱にもなるし 何も変わらないです
ただ 見ていてくれるだけの存在が私には
強さ でした
でもやっぱり神様に逢いたいです - kamidanaya3 21-08-04 (水) 14:46
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神祭では祈りにもう一度立ち返る機会をいただき、ありがとうございました。
何か追い求めたり探し求めたりすることにかまけすぎていましたので、『祈り』の大切さを思い起こすことになりました。
…そうだった、追い求める感じというより深い深い感覚を携えて、求めても到底届かないので 雑雑と考えることからも遠ざかって、憧れのような感謝のようなものの中にずっしりと心を落ち着けていたときがあったなぁと。。
離れた場所から少しだけの参加で神道的にふさわしい祈りには足りていないと思うのですが、日々浅い努力にもっていかれていた日常への気づきを頂くことになり感謝しています。
いつもありがとうございます - 管理人 21-08-09 (月) 22:20
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パイ生地さん
いつかパイ生地さんの中の神様に逢わせて下さいませ (´∀`) それが本物の神様ですよ。
kamidanaya3さん
おおっ、なんか小難しいこと書かれてるじゃないですかっ!素晴らしい (^^) こちらこそ、いつもありがとうございます! - パイ生地 21-08-10 (火) 7:33
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おはようございます
それが本物の神様です
ありがとございます