つづき。
この地の立地はなんと言っても、
「熊野参詣伊勢路(熊野古道)」
の通り道となっておりまして、熊野と直結しております。ここに通っている、「紀勢自動車道」を北上していきますと、みえてくるのは、
「丹生山 近長谷寺」 や 「丹生山 神宮寺」
丹生山は、昔の近長谷寺や神宮寺の『山号(頭にお山の名前がついてある)』になるのですが、この二か所のお寺に祀られているのは丹生大師。
そう、『空海さん(弘法大師)』の別名です(´ー`)
丹生山・・・丹生大師(空海さん)・・・熊野古道・・・
ここまで来れば、勘の良い方はすでにお気づきかと思いますが、繋がるキーワードは、そう、『水銀』。「辰砂(しんしゃ)」・「丹砂(たんしゃ)」・「朱砂」・「丹(に)」とも呼ばれるものです。
水銀を含む鉱物から作られる「朱(しゅ)」と呼ばれる、一般的に赤色の顔料は今でも鳥居やご本殿に使われたりしております(´ー`)
(この朱に特殊な貝殻を粉にして混ぜておりまして、何十年たっても光沢のある美しい朱が維持されている訳です)
昔、書かせてもらった
『自然から愛された神。五十猛様のお話①』
に出てくる、「丹生津姫」にも「丹生」の文字がっ!(笑)
(ちなみに、「津」の字は助詞の「の」の字から来ておりますので、訳すと「丹生(水銀)の姫」となります)
この丹生津姫さまも水銀の神様でしたよね(´ー`)
熊野街道と伊勢本街道が交わる交通の要衝である、多気郡一体は、その昔水銀を産出する特別な地でもありました。
そして平安時代にその重要性を理解し、その地をおさえ高野山を手にいれたのが空海さんでもございます。
話は飛びますが、お伊勢さんの内宮・外宮はその昔より結構な論争をやってのけました(・_・)
・・・神様にお仕えしながら、どういうこと??って感じなんですが?(・_・)
原因は、今の世でも残る『禰宜』(宮司の次にエライ、現場のエキスパートって感じですかね?)という立場の神主さん(荒木田家・渡会家)が権力争いと申しますか・・・・
やれやれ。
まぁ、ありがちなんですが「正しい信仰」の名の元、当時のケン力者も巻きこんでバッチバチに対立していた黒歴史があります。
(これは明治初期に、「世襲はやめようぜ!」という話になり、ようやく落ち着きましたが(≧▽≦))
伊勢は神領地として、徐々に増えていった経歴もあるんですが、その過程の中で経営団体として栄えた「渡会氏や荒木田氏」が当時より、貴重価値の高かった水銀を朝廷に献上していた歴史もありまして、
「国内外交にもっとも強力な資源の一つ」
として扱われていた記録があります。外宮の渡会氏も、この水銀の力を利用してのし上がっていった一族であったに違いありません(^^)
ちなみに、先に記述した「丹生山 近長谷寺」ですが、この地域の豪族「飯高宿禰諸氏」(4代の天皇に使えた采女=うねめ:昔、主として天皇の食事に奉仕した下級の女官)を送り出しており、その背景にも水銀があった(天皇家に献上していた)歴史があります。
伊勢の神宮はもちろんのこと、自分はこの瀧原宮&丹生山 近長谷寺や丹生山 神宮寺なんかもおススメの場所ですね(´ー`)
言葉にできない神聖で清浄な空間と、お寺独特の存在感から醸しだす姿をみると、
「おぉ、まさしく陰陽上手にあわさってんなぁ~・・・」
と思わず見とれてしまうほどの存在感なのです。
んで、伊雑宮に行く前にせっかくなので『倭姫命様』からのお言葉を。
つづく。
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