- 2022-12-30 (金) 21:00
- 神様
さての。ぬしらが少しでも、わしの言葉より学びを得られそれが己らの人生の中で反映されればそれが一番ありがたくも思うが。
さて人の性の話をしてみた所で、この世に生まれたものは平等に土に還る。それが男であっても女であっても、中身の根っこにある性分や性格と分析してみてもそう多くの意味があるとは思わぬが、ひとつぬしらより尋ねられた今の夫婦をみてわしらがどう思うか、と言伝えれば、まぁ夫婦と申すより今の個々の人間をみてとなってしまうが、嬉しきところと悲しきところはある。
嬉しきところはの、強き想いと強き信念あれば己でしっかりと考え、また選択し、己で決め、主義や主張の旗印を上げて己の人生、己の思うまま生きやすい時代ではあるの。人は人が作った法の定めの中で生き、そこに本気の努力や誠実さがあればことは成っていく方向へと向かう。
悲しきところとはの、多くの情報に振り回されあるでの部分の想像力が欠落し、多種多様な主張がある中でも己の考えに責任や覚悟が定めにくいと感じておる。
本来の情報とはの、己の個、魂や底より湧く信念と行動があってこそ、それが磨かれ修理固成される道具としては真によいものじゃが、それが無くば己の迷いの元となるだけの話での。魂の輝き、その方向性は己の過去を振り返り、また我が内に向く時にしか育まれぬものじゃが、その時さえ惜しむのが今の世ではないかの。
情報として、小さな機械で言葉は得るがそれが己のモノとは成らぬ。言霊とは依存する為のものではなく、和をもって尊しとなすという言葉は残っておってもの、例えればひとつのクラス、半分以上の生徒たちが個を主張すればそれもクラスとしては成り立たぬ。己のモノとするならば、考える時間や基準となる魂の輝きや存在が必要な訳じゃがの、それが家庭の中で育まれてはおらぬ。
人の世で多様性がある社会と言われ久しく時は経つが、そこに己の魂からくるまっすぐな想いなければ、それは我がままな私の集団に過ぎず、個が立ち過ぎれば他や公が無くなるのは当たり前の話での。
老いた者に席をひとつ譲るにも、本来は自分はまだ立てる力がある、あの者は辛そうだとその想い一つで声を掛ければ済む話じゃが、それが出来ぬ己、それが出来ぬ社会へと己らが自ら導いておる。
さての、これらは苦言ではないでの。世の中、バランスというものがあるがこのままいけば、過去はただ懐かしいだけの話となろうし、わしらの言葉より一つでも何か学びがあればそれで良い。
まぁ、わしが一つ言葉遊びをすれば、今の時代と大きく捉えてみるならば、自分以外への思いやりや他人を慈しむ公の心も、ひとつの強烈な個からしか生まれぬということ。それに成りえるか、成りえぬかというだけの話じゃよ。
これはわしの想いじゃが、人間の脳みそひとつとって、それが男によろうが女によろうが、両性をもってしてもそう変わりはせぬ。おのおのがこの世を去る時に己は精一杯、生を生き抜いたと納得できるか。
また人間、くくればこのわしらが見守る日本という地に生きる者たちが互いに殺しあわず、足を引っ張りあわずに他への愛や情をもって平和に過ごせるか否か。1人でも多くの者にそういう人生を送って貰うのがわしらの願いじゃし、わしらはそれを見守るものとしてここに存在しておる。また、その一番小さな単位が家庭や家族であり、夫婦と呼ばれる存在じゃろう。
ぬしらが呼んでおる、受験という季節になぜ挨拶が多くなるのかと一番不思議に思っておる神は道真公じゃろうがの。それでも、その瞬間だけでも手を合わせて頼られ、想いを込めて貰える神々からすれば不本意ではあるやも知れぬが、まんざら悪い気もしておるまい。今の時代はそんな時代じゃよ。 彦

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