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選挙と宗教と自分。

  • 2019-04-05 (金) 1:00
  • 教訓

皆さん、こんばんは。

さて、今さらですが・・・・日本中、、、、否、世界中を調べても雨後の筍の様に生まれては消えていく『ザ・宗教』。

これはこれで、人間の、根幹の肥やしになる大切なモノだと感じております(´ー`)

さらに言えば、その根幹はつまる所「個人の考え方」や「個人の捉え方」に、あり。

ですが、それが「宗教」となれば『集団』による、『集団の為の』教えがある。

だから。だからこそ!なんですよっ!

・・・・って言っても意味不明ですが、しばらくお付き合いを(^^)



「宗教」

そこには柔軟性や批判を一旦、受け入れる懐の深さ、、、、そしてなによりも、個に根差した『考える力』・・・自分の宗派でいえば『修理固成』が必要だと常々、感じます(´ー`)


・・・・それが伴って、初めて言葉にして言える「宗教」ではないかと。。。。


周りをみて下さい、、、なんと、「似非宗教」が多い事か!!

柔軟性もない。懐の深さもない。もちろん、考える力なんて最初から、持つ気もない(苦笑)

今の(あえて言葉にすれば)似非宗教の最優先事項は、

「いかに組織を維持するのか?」

ネットの力もあって、裏も表も玉石混交の情報もさまざまで、また選択肢も多く多様性を全力開花させてる今の現状では当たり前の光景かも知れません・・・・

神社そのものも、氏子や崇敬者の獲得(維持)で精一杯のところですので(汗)


話は変わりますが。

最近はあちこちと、選挙の演説が各交差点や駅で見受けられます。

っつーか、「似非政治家」が多すぎるって!

いや分かるよ!演説自体が、自分の考えを全力で述べる場所だし、ある意味これが現在の政治家の全てってことは、よく分かる。


政策はいくら聞いても飽きはありませんよね~

だって、その時に言いたいことを言っておけば問題ないのですから(._.)だから、飽きもしない代わりに、、、、すみません、あまり聴きたくもない(汗)


で、自分が問いたいのは宗教家としてこれだけ。


立候補しているあなたにはありますか?

『批判を受け止められる柔軟性』と、『批判を元に考えられる力』。



偉そうなこと言えば、、、これがないと本来は「宗教」とも「政治家」とも言えない気がするんだけどねぇ~自身の存続をかけた、集団の維持や票の維持が最優先だもんね・・・・集団は「力」。でも、ネットの力で分散。これも良い傾向かも知れません(?!)

街頭演説では、なーんにも分からんわっ!!!!

あんた、それ本心よね?!信じていいんよね???

結果じゃなく、あなたの汗流している姿を、視える形でみせてくれるのか?!

ホントに申し訳ない!その姿がみえないと、誰も同じに見えて、聞こえてしまうんですよっ!!政策がその通りよりも、途中の姿がみえる政治をして欲しいっ!!!

夜の8時過ぎて、なんやかんやと喚かないで欲しい!!!

初っ端からルール犯している人には絶対、入れませんって・・・(;´∀`)


まつりごと。

宗教も政治も、根っこは、『個人』。

コロコロ考え方は変わっても問題はないです、正直言って。

・・・うん、自分も去年は何を考えていたかも覚えてないや(笑)


考え方が変わる、その蓄積や澱が「信念」と呼ばれ、信念は個人の自由ですがそれが個人として貫けるかどうか。また、客観的にみて受け入れられるかどうか。だけの話。

その本質が好きになって、集団に属するし、投票にも行くよ(^^)

なんかね、最近感じるのは「信念」と「意地」と「世間体」をいろいろ混ぜ合わせた挙句、はき違えている、個人も宗教も政治家も多い気がしてます。んで、演説だけは上手な政治家。そして宗教家、そして個人。


柔軟であって欲しいですね、個人も宗教も政治家も。

そんで、「これが自分の(団体の)信念だ!」・・・・と「考える力」を放棄しないで欲しい。

・・・・まぁ、正直、「楽」なんですよ、放棄して流されていた方が(´ー`)

んで、面白いことに不器用に、愚直に、これを追求した人からその場から居なくなる不思議さ。こんなんでいいのかな、これからの日本は。


やっぱり人間から「考える力」を失くしたら嫌です。

宗教も政治も・・・個人も・・・ですね(´ー`) 

願うところは、一生懸命考えて、一生懸命あがくこと。



若い人で自分が恐怖を感じることが、「あんまり考えていない」事。

いや、よくよく話を聴いたら考えてはいるんでしょ。。。。自分自身のことや、まだ起きてない将来のことや、どうでも良い目先のこと。


それが許されるのは、若さの特権でもあって、まぁ40過ぎたオジサンでは、まぁ許せる範囲かと思うんですけどね~まだ、「これも時代だ。」と無理やり、蓋をかぶせる事も出来るんですが。

どんなアホでも、本人が誠意ある生き方を必死にしとけば、やっぱりカワイイもんなんです。応援したくなっちゃう。皆さんもそうなりません??


なーんか愚痴だらけの記事になっちゃいましたが、ひとつだけ朗報です。


「神様、厳しい。でも、真摯に必死な人には優しい」


(笑)


やってる事の大小ではなく、結果でもなく認知度でもなく。

方向性は確かに大事だけど、神様、やっぱり身をもって厳しいけど・・・・・まず頑張っている人には優しいんだな、これが。


辛くなったらチャンスだよ~頑張りどころだもん!

老いも若きも頑張ろう!楽しもうよ、いろんな人生を(´ー`)

んで、辛くなったら空を見上げて「これも人生さ。」とつぶやいてやろう。

いいよ、多少の迷いや寄り道なんてさ。

それが一生懸命考えた結果でしょ?

挨拶だけはきちんとしたい。最低限のルールは守りたい。

そして!

出来れば、その人の意見は声を出して真剣に伝えて欲しい!

間違ってもね、

「ほら、こんなに頑張ってる。だから察して下さいよぉ~」

なんて思っちゃダメだよーそんな姿は神も人も遠ざけてしまいやすい(*´▽`*)









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コメント:2

19-04-06 (土) 21:30

日本の未来に関わる事であるので、あまり良くないとは解っているんですが、そうなんですよね、選挙カーでの演説を聞いていても、それが本心なのかどうかも見えてこないし、時間帯にそぐわないというか、もう就寝前だろうという時に来る爆音車に投票しようという気も湧かない。

結局、投票自体へも足が遠のいてしまうという。
(選挙カー以外に、講演会やネットでのなんかしらをして、意思を表明されている政治家の方々もいらっしゃるし、自分自身の気持ち、怠慢という部分もあるが、その人そのものを見ようとする努力もしなくなりがち)

また、話は変わって、いかに革新的なアイディアを持っていても、思い付いて試そうと思っても、この日本で受け入れられる場がないと感じれば、海外などの、そのアイディアを活かせたり、上手く深められる、整えられる場へと出て行く。
何かしらを求めて研鑽しようとする方々の背景として、そういう所があるのかもしれません。

職場とかもそうだと思うのですが、やっぱり人間関係って大事なんですよね。
友人が話していたのですが、周りの人が死んだ目で、金だけ貰えりゃいいやと言ったように働くような会社では気も滅入るそうで。

また、地位の競争というか、それによって蹴落とされあう関係なんて入り込みたくもないでしょうし、何か…こう、極端に言えば社会的病質者、ソシオパス的な、社会の前にまずそれを構築しているのは一人一人の人なのに、社会を成り立たせている要素を重視するあまりその「一人」という部分を見逃している、あるいは簡略化し過ぎていると申しましょうか、麻痺しているような方々によるすれ違いもあるかと思われます。
(単に性格の問題の括りとされる事も多いようですが、そもそもが脳の便利な機能として、物事の認識を簡略化できるという所もあるので、それぞれが自分自身の行動を見直せる必要性を感じる)

社会的な面や、組織としての機能維持から見れば、命令系統、管理系統と、実行系統の区分を作っている事から、それらを成り立たせる上で上下の関係は大事ですが、本当は、人間同士、単なる生物、命として見れば上も下もないのに…、例えば、人間(個人自身)や知能の高い生き物だけをやたら高尚な存在としてもて扱うとか。

(そういうのって、どんなに良い所のある考えだとしても、個人の解釈、尺度、あくまでも一つの考えで、実際には存在しないものだという事を忘れ、誰かれに強制しようとすれば、宗教戦争ばりの事になる可能性もある)

人それぞれを住みやすく、活きやすく出来る場、受け入れられる場を作れるのは、村雲さんも書かれたように、一人一人が自身の力で立てる事、他者と関わる上での余白がある事、立てるその力が己が身のみで出来上がったものではないと、立つ力の本質を心から理解する事、理解した故の、他者への敬意からなる、尊重や思いやりなどが大事なのかもしれないと思います。

昔よく流行っていたような、「ポジティブ」だとか「ネガティブ」だとかいう言葉もありますが、「ポジティブ」という言葉を良いものとして、「ネガティブ」という言葉に悪いイメージがついたりする事があったりしますよね。

本当は、長所と短所は紙一重、どちらも行き過ぎれば「躁鬱」として、デメリットはあり、デメリットとする所があるなら、それぞれの良さというのか、強みはある筈なのに…
(良いだけ、悪く結びつく所がまったくない、というのは、人間の認識という観点から見て、現実的な存在が難しく思う。…ただし、別れた大まかな括りにする事で、認識として理解しやすい可能性はある)

悪いものとして、己が持つ行動への活かし方もクソもなく、それ自体は悪いとは言い難いのですが、ただ改めよう、変えようとする努力へ結び付ける。

ポジティブなんて、悪い目線から見れば「多くの事を良いものとして認識する思考停止」ですし、良い目線から見れば、ネガティブは「多くの事を懸念できる思考流動」とでも表せますし。

人間の持つ感覚なので、蔑ろにして良いという訳でもないですが、良し悪しなんて、結果からその人その人がどう見ているか、繋げているだけなので、なんとでも考える事は出来ますしな。
個人個人が持つ感覚の、それ以上でもそれ以下でもなくて。

何かを正常、こうあって然るべきとする事、基準、基本を作る事は良いと思うのですが、それを元に「落ちこぼれ」を作ってはいけない、この元にしてはいけないと感じます。
(倫理というか、人として関わる上での最低限の持つ礼儀、節度、思いやりなどから、感情を投げつけるように怒鳴るのではなく、ダメな事はダメと叱る必要はあるだろうが)

あとは…、自分の考えを持った時の責任というのか…、自分の考えへの向き合い方、付き合い方、もしくは持ち方とでも言えるものでしょうか、まともな武道には
よくある、力への理念ですかね。

迎合する事、流れる事というのは楽ですし、確かにそれ故に身を滅ぼしかねないという事もありますが、それを上手く活かし、未来が明るくなるよう、和へと進めるよう考えて来られた方々もいらっしゃったのでしょう。(だから日本がある)

その塩梅と言うのか、己の世界に閉じこもりきりにならないバランスを、如何にして取るのかというのも難しい所ですが、大事かと思いました。

ええい、どうにも見えず、疲れた時はままなれよ、ゆっくり休んで神頼みじゃあ!

…割と、本気でこのバランスは運も絡むというか、自分の身を振り返ってみれば己だけではどうにもなりそうになかったと思うので、そういう意味では、そういう認識から、部分的に閉じこもりきりになる事は少ない…?

うーむ…、考えにまとまりがなくなってきたので、疲れてきたのだろうと思い、これにて。

察して欲しいと思った時は、自分から助けて欲しいと伝える事を忘れないようにしたいですね。
…そもそもの性格からして、誰かに頼ろうという事があんまりなく、抱え込んで潰れる事もあったので、自分はそこら辺からかもしれない。

19-04-12 (金) 15:23

あとから思ったんですが…
(この文を読み返してみて、深い部分の内容かとも思ったので、自分としては、もし掲載判断を迷われた時、落としてもらっても構いませんよ)

宗教と人との関わりの中、宗教の「支え」という部分を盲信し、人が己が身で動ける力を忘れる場合もあり。

政治や社会関係であれば、己の体裁や自己の利益のみを考えて動く事で、かえって信用のなさや身の破滅を招き。

これってどちらも同じ問題で、人間関係…、それだけに留まらず、自と他を基本とした関係に付いて回る問題なんですよね。
(自分という内訳も、精神と身体という見方をすれば同じく)

神社や宗教、政治団体、国という組織は、個、一人一人から成り立つものであり、それ故に組織を「一人」、「一つの生き物」として見立てても、似通った問題が出てくる。

人として、基本的な礼節、最低限のルールの見直しを、常日頃から改めて考えた方がいいのかもしれませんね。

結局の所、人間に生まれた以上…、他の生物もそのようですが、生命体としての簡素化という能力を持っているものだと思うので、手段と目的の履き違えというのか、何が基本なのか、どこが地なのかも解らなくなる時さえある。

…生命的には、「地」という考えさえも、簡素化の一つなのかもしれませんが、それはさて置き、初心といいますか…、せめて大切な事に対して、横着、なおざりにしたり、蔑ろにならないよう気を付けたいですね。

詳しくは存じませんが、神道とは、人を無為へ流すため生まれたものではないでしょうし、演説も、社会も、それは同じ事の筈だと思うのです。
もしその為に存在するのであれば、自ずの働きからそれらそのものが、無為へ帰るでしょうし。

何より、それを理解してこそ「宗教」というものが成り立つのだと思いますからね。

なんというか、使い捨てと言えばいいか、一過性のその場だけのもので終わると言うのか…

周りの事を考えすぎて、自分のように、それによって動けなくなるのも困りものですが…、それにしたってあまりにも目先の事ばかりで、長期的視点から考えていない人、競争ばかりで、思いやりの薄い人が目立つように感じてしまう。
(経験として、そのように感じる人の多くが、その場に適して真っ当に考えている人の事を「考えていない」と揶揄する事もよく見てきたし、自分自身真っ当な考えが出来ていたという奢りはないが、されてもきた。それによって、考えている人が更に深く考え込み、考えていない人がますます考えなくなるという悪循環も感じてきた)

…そういう事を実際、当人へ言ったとしても、言い方も関わるかと思いますが、今まで何らかの分野において、深く考えたりしてこなかった人にとっては、すぐには理解できないでしょうし、面と向かって言われる事で抵抗感を持つ方もいらっしゃるでしょう。

いわば数学に向き合うと頭痛を起こすような感じになりかねず、またそれによって混乱した当人が感情的に「あなたとは感覚が合わない」、「あなたはおかしい」と、繋がる事、理解をする事などを諦めてしまわれれば、大分面倒になったりしましたが。
(大体こういうのが友人や恋人や夫婦間、縁の別れの一端な気がする)

また、話は戻りますが、日本に広まったであろう過去の宗教から察するに、昔から根付いてきたであろう、宗教感や人生感に対し、真摯に向き合ってくださった方々の作られた宗教は、その方々もそうだった可能性あってか、柔軟性高いですよね〜。

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