「神社にいった際、村雲さんは祝詞を声をだして挙げているとのことでしたがどれぐらいの声の大きさであげるのが普通なのでしょうか?自分は未だに恥ずかしくて声がだせません」
そんなご質問をいただいておりましたので、今日は「祝詞奏上の声の大きさ」について。
恥ずかしいお気持ちはよ~く分かります。若い時の自分もまさしくそうでしたから(汗)師匠に引っ張られる形で、次第に声は大きくなっておりましたが参拝者の方が多ければ気になりますよね~
先に千種宣夫著 『神道故実の軌道』 から一部、引用させていただきます。
尊貴の前に在っては、恭敬の致すところ自づから高声を憚るものがある。祝詞についての古い口伝に「念ずる心で読め」といふのがある。祝詞は奏上するもので読むものではないと曲解する向きもあらうが、ノリとは紙に書いて奏上するのが本義であるので読むといふのであるが、心中深く念ずるところ、その音声はいかが在るべきであらうか。古人は、「聞ゆるほど」 と教えてゐる。「聞ゆる」 とは何か。
この場合は、神に聞ゆるではなく、参列者に聞ゆるほどといふ心得を指してゐて、参列者が十人ならば十人に、百人ならば百人に聞こえるほどの音声が求められるのである。聞こえ過ぎても聞こえにくくてもならぬ。程よくあらましいといふ戒めなのである。
近来安易にマイクを用ふる傾向があるが、往時師団の招魂祭のやうな広い営庭の場合等ではマイクを使用することはあったが、社殿においてはマイクを使用することは敬遠された。祝詞は神に申すものであり参列者を意識し過ぎることを戒慎したのである。そして何よりも祭祀の神秘性を乱すことを惧れた。
夜の祭りの祝詞は低声といふ慣はしがあるのは夜祭りの持つ神秘性に基づくのであり、笏拍子をもって人を警めるのである。降神・昇神詞が低声であるのは、それが神にのみ申し上げるものであるからであって、そのために人に対しては警蹕をもって警めるのである。
一般的に多人数の参列者に聞こえるほどの音声とは単に声を張り上げるのではなく、よく透る声であらねばならぬ。「聞ゆるほど」 とは名言である。「面白の春雨や、花の散らぬほど」 で、過ぎたる声に祭庭の花を散らしてはならぬのである。
自分もちょっと気になったので、図書館にいっていろいろと古い文献を読みあさり、調べてみたのですが・・・・・・結局、古の作法については神職を対象にした記録しか残っておらず・・・・(千種宣夫著 『神道故実の軌道』 はそもそも仲執りもち(神職の仕事)の心構えを説いた本でございます)
参考になるかどうかはわかりませんが、神社参拝にあっても正式に一人で祈り、真心を伝えるのであれば祝詞の声は、
「本人が聞こえればそれで良い。」
と、今のところはこの解釈で良いかと考えております。村雲的には。
ちなみに自分が神社にいって祈る時は、人が少ない神社はそこそこ声を挙げ、またせっかくの参拝なのでマナーには気をつけ、参拝者が多い社では、
・ 祈りが長くなりそうであれば本殿に向かって少し右か、左にずれ
・ 声は微声
とさせていただいております!せっかく神様にお会いするのに、他の方の迷惑にはなりたくないですからね(苦笑)
ちなみに余談の豆知識ですが・・・・・
大殿祭の祝詞に関する古記録には、
天皇陛下が神宮に奏上する際の御告文(天皇陛下が神様に対してあげる祝詞は、「御告文(ごこくぶん。おつげぶみ。)、これに対して天皇陛下以外の皇族の方は「告文(こくぶん・つげぶみ)」と呼ばれます) 「微声」と書かれております。
・・・・・ただし、大祓詞は「朗々と唱える」とのこと。
ある知り合いの方が、神宮に参拝させていただいた際に真心から読み上げていた天津祝詞を、神宮の神職さんが迷惑だからと注意を受けたとプンプンされておりましたが(笑)・・・・・古文書によれば、これも仕方なかったのかなぁ~と・・・・・・。
頭の片隅に入れておいてくだされば、、、、、、
いつか、何かの役には立つかも?(苦笑)
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