- 2015-08-07 (金) 14:28
- 神様
先日、わざわざ四国からきて下さったご夫婦の方のお悩みは、「我が子が愛せない」というご相談でした。
結構、時間つかっていろいろお話を聴かせてもらい、また筆書きもたくさんさせて貰いましたが、昔から自分のブログを読んでくれていた方らしく最後に 『産土様からお話が聞きたい。』 ・・・・・・と。
残念ながら帰りの時間がきてしまい、後日筆をとって送りますと約束したのですが・・・・なんか筆をとってメールで送るためにパソコンに落としている間に、自分の中にもいろんな想いが複雑にからみあって訳のわからない涙がでて来てしまったので、その相談者の方の許可をいただいて筆書きを掲載させていただくことにしました。
どこかで誰かのお役に立てば幸いです・・・・・・ってか、正直、心当たりがありすぎて少し心が痛かったりする。。。。。。
子を信じる・信じぬというては難しい話にもなろうがでは同じ肉体を持ち、同じ魂を持つ人間という存在ひとつとってみての。まぁそこには草虫、他の動物との違いは魂や姿形をとってみれば一目瞭然じゃろうが、そこにぬしらは人としての自覚があるだけで、どちらが上か下かは本来あるまい。
では同じ魂、姿形をとった人間同士。人間と犬や猫との掛け合わせではなく、同じ人間同士から生まれた魂と肉体。またそこに親子となればその魂や肉体は半分づつ、ぬしらが父や母と呼んでおる己以外の人間からもらってきておって、○○(村雲の神様からの呼び名)にしても我が子をみれば、あぁここが似ておる、ここは嫁殿の家系かといろいろ考えてもおろう。そうやって、己以外の存在を認めていく作業を行っておる。いえば、信じるとは認めることから始まっておる訳じゃの。
認めるということ、これはすべてに置いてのはじまりの作業。
人は己以外のものより認められそこに人として在り、さらに人に認められて力を発揮し、己は己を認めて誇りともなる、いえば認める、認められるとは新しく生まれくる力や気の源。わしら神々と呼ばれしものらも、人より認めてもろうてはじめて神と名のつく存在になろうしの。
愛情ということも同じこと。いくら身を切り相手に情を注いでも、その対象を正しく認めておらぬうちは己が作り上げたものに対して、ただ想いを注ぐばかりでの。結果としては、本人が気づかぬうちに己自身を愛しているということになるじゃろう。
いくら神様を愛しているかというても、己を一番に認めておる人間の中には本物の神はおらぬことを考えれば、○○も少しはきづくこともあろうか。
さて前置きが長ごうもなったがの。では、この母と呼ばれし存在、間違うことなく子を愛し、子に慈しみをもっておることには違いない。母と子は切っても切れぬ縁がある。他者にはない、より深い関係をもっておる。
しかしの、わしより冷たい言い方をすれば今の母様や父様、その根底である認めるという行為をやってはおらぬ。目の前に子がおっても、その心にはその子は映ってはおらぬ。いくら情を注いでも愛を与えても、怒っても叱っても、それは己の中で作り上げた子にしかやってはおらぬということになるかの。
人間がわしらと一緒に行う、祭りというものがある。これは和じゃの。
和とは二つ以上の違うものが一つとなる作業。神を認め、己らの存在を認め、その中でわしらを喜ばせよう、楽しませてやろうと人が想いをこめて行ってくれる祭りというもの。これも神と人との和というものじゃの。
祭りの前には人は潔斎を行い、日頃の罪穢れを取り払おうとする。いえば、わしらと一瞬にして近づき、一瞬の和を持とうとする。神社でわしらに会おうとする前には、手を洗い口をすすいで鈴を鳴らし、その瞬間わしらに近づこうとする。
和になる。一つになる。そしてその前に認め合うとは、つまるところ近づくということにもなる。近づくとは、言葉を紐といてもうせば、同じところを見つけあい、それを重ねていくということじゃの。
それは決して姿形ではなく、目にはみえぬものじゃの。人は同じ人間でも、手がないもの、足がないものを人間として認めぬことはなかろう。
同じものを食い、同じ空間で生活し、同じ経験をし、同じ苦難を乗り越え、体を合わせ心を合わせ、そして少しづつじゃが一つとなっていく。これが認め合うということに近いかの。
それを飛び越えて、わたしは子に対しての想いが少ない、わたしの過去に原因がある、育て方を間違った、わたしの親が悪い、なんの因果があってなどと、いくらうたってもそれは己を愛しすぎた者の呪いごとにしかすぎぬ。
わしよりの言葉はこれで終わりじゃが、そのまま伝えよ。
わしの言葉をひとつでも心に溶かしくれておる間は、わしは必ずこの者を見守り続けておると、この者にそう伝えよ。
建御雷神
厳しいお言葉でしたが、とても強くてとても優しい言葉だと自分は感じました。
ところどころ、個人情報は抜いて写させてもらいましたが、以前からブログを読んでくださっている方々より 「神様の言葉を村雲が感じた内容で訳して欲しい」 との言葉がありましたので、本来は解釈は人それぞれなのですがせっかく写させていただいたものが理解しにくいと許可をしてくださった方や神様にも申し訳ないので、自分なりに解釈した言葉と、自分の考えを別けて次の記事でアップさせていただきます。
コメント:10
- 千恵 15-08-07 (金) 17:17
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神様のお言葉は温かい気持ちにさせますね。
この、ご夫婦の想いについて、人間が述べる言葉はないでしょう。
神様の一句一句から、清らかな光を感じて来ます。
自分の周りにも同じような家庭環境のお宅があります。
内情はうかがい知れませんが、、、。
明るくて笑い声が絶えないように思います。
障害をお持ちのお子さんが話す言葉に笑いと笑顔が、
毎日溢れているご様子です。
「あの子、神の子のまんま一生を過ごすのよ!」
「神の子だから、この混沌とした人間社会は辛いだろけどね…」
と、ご両親は誇らしげにお話されていました。
神の子を授かったご夫婦に幸多かれと祈ります。 - ちゅみ 15-08-07 (金) 18:50
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こんにちは。
神様の御言葉、心底厳しいけれどあたたかく優しい優しい御言葉。
しょうがいにもいろいろあると思いますが、亡夫は視覚しょうがい者で全盲でした。夫がお腹に宿った時、夫の母は結核というその当時は治り難い病だったそうです。既に兄も居ましたし夫の父も周りの誰もが産む事に反対したそうです。ですが母は夫を産みました。妊娠中に服用した薬のせいで夫は目にしょうがいを持ったのであろうとの事でした。
夫を産んで5ヶ月後、産みの母は亡くなっています。
母が命懸けで夫を産んでくれたお陰で数十年後、私は夫という一人の命に出逢えました。夫との出逢い無くして私の今の幸せはありません。
しょうがい者であるとか、出逢った結果、夫となるとか、それは形です。しょうがいがあっても、無くても、どれだけの人の手を必要としなければ生きていけないとしても、出逢いには壁はありません。
ご両親様がこの世に誕生させて下さった、そして悩み、村雲さんにご相談された。
ご両親様は溢れる心痛にすがる思いで村雲さんをお訪ねになられたのでしょう。ですがその苦しみがあってこそ、また、ご両親様の寛大なお心があって、この度、神様の大切な御言葉を伺う事が出来ました。どんどん繋がっています。
愛はご両親様からだけでは無いと思いますです(*^^*) - YS 15-08-07 (金) 19:58
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認める、認められることは信じる事に繋がるのだと気付かせていただきました。
愛にも、自分の中で築いた愛に愛する事ってあるので考えてみると相手のことを考えていない。。。私自身に思い当たる節がありました。
私も子供がいます。
自分の理想を押し付ける事ってあるのですが、それが躾だと思っている節があるのです。
沢山考えると難しいですが、お言葉ストンと入りました。 - もも 15-08-07 (金) 21:15
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私の弟は自閉症の40才のおじさんです。弟が切っ掛けで自分の両親と今は2世帯住宅で 楽しく暮らしています。障害を持つ子供の愛し方で 悩んでおられるお父さんお母さんのお話を見て 今の私の弟に思う気持ち 私の子供達が 自閉症のおじさんを思う気持ちは、正直そんなに好きじゃない…嫌いじゃないが…でも ほっとけないょね~家族だもんね~でした。それだけで じゅうぶん愛ですょ(^∇^)だって家族じゃなかったら 大変だな…って思っても 絶対一緒に暮らそうとか思わないですもん。ちなみに 障害の無い 父ですが愛情が もてません…嘘です!笑っ 四国のご両親様は 愛せない…って思ったじてんで、愛してると私は思います。
- そに 15-08-07 (金) 21:19
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ありがとうございました!
私にはこの言葉しかコメントとして残す事が出来ませんが
今回の記事を拝見し、色々な気づきがあって勉強になりました。
偶然は無くて、全ては必然であるというならば・・・
実は、ちょうど「和」について調べていた日でした。
そして・・・
気の向いた時にしかチェックしていないのに(ごめんなさい)
ちょうど「和」に関する神様のお言葉が掲載されていて・・・
あらゆる意味で本当に有難く、感謝しております。
産土様からのお言葉には、慈愛だけでなく力強さがあり、
言葉にも重みがあって・・・
結びには、神様としての誓いの言葉を添えて励みになるように・・・。
素直にシビレました。
私自身、苦手とする部分でもあるので、
今回の言葉を胸に深く刻みながら相手の事を少しずつでも
認めていけるように頑張っていきたいと思いました。
神様、村雲さん、そして掲載の許可を出してくださった
四国在住のご夫婦の方に、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました! - kabosu 15-08-07 (金) 22:47
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神様の言葉への思い…ではないのですが。。。
私の二人目の子 には重い障害があり、それはお腹にいる時に分かりました。
いくつかの病院で同じ答えをもらい、全員一致の医師達の勧めのまま人工死産をしました。
生まれても、すぐに亡くなります。
そういう理由でした。
ものすごく悲しく、諦めるのに時間がかかりましたが
仕方ない。
そうするしかなかった。
そう思っていました。
けれど、本当にそうだったのでしょうか。
人間の判断で、魂の修行をする為に生まれようとしていた命を無理矢理奪ったことが、仕方なかったのでしょうか。
例え生まれて間もなく亡くなったとしても、
その魂は目的を果たしたはず。
それを、私達は自分達の判断でさせなかった。
自責と罪の思いはなくなりません。
一生、もしくは自分の魂があり続けるまでなくならないと思っています。
今、お育てになられているお子様とご自分との
心の繋がりがいかに難しいものと思われても
その命を全うするため育てられている。
大変なことが多くあると思いますが、
それだけでも、私はご立派だと思います。
私には出来なかったことです。 - 名無しのゴンべぇ 15-08-08 (土) 0:03
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神様の言葉は、気付かせてくれる事が多くて
器の大きさ、懐の深さに頭がさがります
嘘がない、本当の言葉があるから、それに近づけるように努力するんじゃないかと思います
自分の思い通りにならなかったりする事もあるけど、誰にでもある事だと思います
支えてあげて、抱きしめられて、嬉しいのは親意外誰も居ないから - さるたひこ 15-08-08 (土) 1:58
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神様のお言葉を受けてどう感じて実践するかだけですね。
厳しくも優しさに溢れる言葉。
今回は「神妙」になりました。
ありがとうございました。 - 日次月次 15-08-08 (土) 3:00
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ももさんがおっしゃってますが
愛せないというのは、愛そうと思って必死に行動してきたからこその思い、結果ですよね。
だから村雲さんのブログを読まれ、鑑定を受けられ、産土神様のお言葉も聞かれたんですよね。
ほんとに愛してなかったら、とっくに悪いニュースに出てると思います。
(悪いニュースに出た親が、本当に子を愛していなかったかどうかまではわかりませんが)
見直し、聞きなおし、いろいろ考えて育てられたら
たぶん、「ほとんど愛していた」ことになると思います。
逆に、本当に愛していない子を育てられるんだろうか、と思います。
だから、育てることができれば愛していたことになるんじゃないかと。
「育てる」≒「愛する」なんじゃないかと。
(そういえば結婚もそうでしたね。。)
ご両親がお子さんを愛せないと思っていても
お子さんが愛されていると思ってくれれば
お子さんが愛されていると信じてくれれば
ご両親はお子さんを愛していることのと同じになるんじゃないでしょうか。
生んでくれてありがとう
一生懸命育ててくれてありがとう
愛そうと頑張ってくれてありがとう
そう言ってもらえた瞬間に愛せると思います。
そう言ってくれるのを待たなくても、
子供がそう言ってくれる、そう思ってくれている、そう信じてくれている、
と、ご両親が子供を信じた瞬間に、今すぐにでも愛せるんじゃないでしょうか。
信じるってそういうことなんですね。
なんか、気付けたのかも。ありがとうございます!
(まぁ、間違っててもいいです。それはそれでお役に立てれば・・・立つかな(^^;;;) - パイ生地 15-08-09 (日) 5:10
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おはようございます
お子さんが大事なんですよね
自信を失くす時もありますよね
子供はそれでも私を必要としてくれる
ありがたいです
子供は宝であり時に面倒な存在
結局私が子供の存在に助けられてばかりで
力になってあげたいってあまり肩に力を
入れすぎずのんびりいきたいですね
って上手くいかない
悩む事も飽きたし しーらないって
今はかなり適当な自分流
あれだけ悩んでいたのは何だったんだろ⁇
適当人間になったみたい