やってもやっても、先が見えてきませんね、、、、。
一昔前なら、「よっしゃ!」と小さな握りこぶし一つ分の達成感や満足感もあって、たとえ山頂がみえなくても一生みえないと知っていても何かしらの『手応え』のようなものに小さな喜びを感じていたんですが・・・これがなかなか、本当に先がみえない。
それに反して、神祭の途中で執る筆の神様の一言一言は、時に意味不明で、時に自分を落ち込ませ、時に心の深い部分を耕してくれる。
その時々で、我に返り現実を直視できたり、また反対に近い・遠い日本の姿を想像させるものでもあって、、、、これも不思議、何とも表現できない心境になります。そして、ああでもないこうでもないと、仲間内で意見を交わしてはまた集合がかかるまでしばらく日常をおくる生活・・・・まぁ、この日常そのものが「穏やか」とは決して言えないのは自身の不徳のいたす所。皆さんもご存じの通りでして(^_^;)
結局ね、対岸の火事をみたときに自分たちはどう考えるのか?考えるべきなのか?
今回は特に、ここを問われてて。
それは本当のところ、対岸の火事ではなく見えない岸が自分たちの後ろに繋がっていて、明日明後日か、何年後先か、何十年後の未来にか、いづれ自分たちの尻を焦がす。この日本そのものが煙に包まれる。
神々様は優しいから、また色々なものを諦めたくないからはっきりおっしゃらない部分も多いと、未熟者ながら感じておりますがつまる所、先人の方々がしっかり考え、しっかり我慢する所は我慢してきて、しっかり地に足つけて積み重ねて生きてきた『収穫』の底がみえてきた、、、ひょっとして自分が気づいていないだけで残りわずか、尽きる寸前?の時代だと考えてます。
勿論、ただ減っただけではなく増えてきた・・・いや、違うな。磨いて尖ってきて世界に通用する文明や進化も多いとは思いますけど、それらを使うのもまた「人」な訳でして(ーー;) これについては考えることがありますので、また後日。。。
結局、自分たちに出来ることは1日1日を大切に、情熱もって生きること。
・・・そして祈ること。
「1日を大切に、情熱もって生きる」
と言葉にすればえらく簡単に書けちゃう訳ですが、これは飽きっぽい自分を例に挙げてもすごく大変なことでもあります(;´Д`)
・情熱はどの方向に、どれぐらい本気で出しているのか?
・そこに自分なりの社会貢献は入っているのか?
・みえないものへの感謝はあるのか?情はあるのか?
(この場合のみえないものは、愛や情や勇気や約束ごと等)
1日、お嫁さんや関わる子供、周りの友人知人と笑ったり泣いたり、ボーッとしたり楽しんだり、傷ついたり悲しんだりさせて頂いておりますが、そんじゃあ
「たとえ自己満足であっても24時間の中で本気で集中してこの先の日本のことを考えてる?」
と問われれば、1日たった10分でも真剣に集中して考えている人の方が珍しいのではないか?と、神様の言葉を聞く度にそう感じる自分がいます。
実際にその瞬間だけでも私を捨て公を、自分や自分に関わる人たち以外の人達に対しての、よりよい未来を考えた内容は、正しいか正しくないかと問う必要もなく、誰彼に問われることもない。祈りも壮大な自己満足でもあって、ただその壮大な自己満足をいかに本気でやれるか否か。
この10分間の質は内容にかかわらず存在していると思いますし、その質がそのまま人生の質に直結、、、、までいかせるのは乱暴ですが、少なくともその方の生き方や生き様には反映されていると感じています。
そんで、鏡をみる度に「お前はどんな人生を残したいんだ?」と自然に問うている自分がいます。・・・そして、最近、太ったなぁ、、、、、と。ま、この際、更新中の体重や自分の見かけなんてどうでもいいんですけどね。
どんな生き方をしても所詮は人間です。才能も枯渇し、体力も衰え、どんどん体重を更新しつつこの年になっても努力を惜しむ人間が、そんなにだいそれた事が出来るとも思っておりません。
が、やはりこの世に生まれてきた以上はがっつりと足跡ぐらいは残していきたい。
究極の自己満足を超える、究極の達成感と満足感を味わってこの世を卒業したいですね (^^)
さての、ぬしらの祈りが意味なきものかと問われれば、そうではないの。しかし、パズルのように、ここをこうやって、こう祈り、この社へ行ってこの神々に挨拶をしてと、それだけで天が動き地が鎮まるかと申せば、それは言葉は悪いが傲慢、よく申せば勘違いといわざるをえんところじゃよ。まぁ、わしらもぬしらをみた時に、○○殿(村雲の師匠)の代より共に走ってくれ、何もわからぬままちょこちょこと動きまわり、かわゆき孫の様なものでの。しかし、世の現実みれば基は人の身の丈こえた欲からはじまり、他の国がからんで己の国へと影響がある時に、平和を願う心の者おれば、対岸の火事の者、またこれを利用して己の金もうけ程度にしか考えぬもの、なにひとつ己への影響を受け入れられずまた何一つ影響を与えることも出来ず、ただ世の乱れのみを願うもの、その中で、ではこの世この国この己の周り、環境を守ってくれと祈っても、そこにそれぞれの熱い想いや覚悟ひとつなくば、厳しい言い方をすれば声は聞こえても一柱の神さえ腰をあげさせる事は出来ぬよ。
さて話を戻せば、もう一度人は何の為に生まれ、己は何を目指して生きるか真剣に考えねばならぬ。しかしの今の現状においてそれを考える暇もないという者達も多かろうし、その中で辛うじて一柱の神でも立ち上がり猶予なき時をかせいでくれておると考えれば道も外れにくい。平和を願う心は当たり前じゃろうし、しかし他の国では互いに平和を願う心がぶつかり合うて今の現状があること一人ひとりが考えればの、また明日からの1日もかわってこよう。ぬしらが祈ってくれておる事、決して間違いではないのじゃが、わしらもこの小さくとも希望の火だけは消したくないとの想いもわかってくれればありがたいの。
今日はの、髙祖の社の神々にもう一度腰を上げてもろうて、この地、この地域、神々古より集いし地をはじめ、改めて外の国のミサイルと申すものより守りてくれるよう、動いてくれるようわしらも頼んでおるで。心より湧き上がる己らの熱量、それは何の為にどう足跡を残していくべきか、もう一度己の心に問うてみることじゃよ。 ○○
- 次の記事: ライブ勉強会 会場再設定のお知らせ
- 前の記事: 師匠のように。