- 2021-10-23 (土) 1:17
- 教訓
「自己肯定」ほど実はあやふやで、分かりにくいものはございません。
「自己肯定感を高めよう!」的な内容の本やセミナーは山の様にございますし、自己肯定感が不足していることが「問題の原因」となっている場合も多く、自己肯定感の向上は一般的に勧められる話ですね。確かに、自分に自信がない人や依存症が原因の方に対しての「自己肯定」は大切だとも思ってます。
「自己肯定感が低い人がどれだけ不便で苦しい生活をおくっているのか」
人の相談にのらせて頂く仕事に携わっている人間なら、数え切れないほど味わう感覚です。
が、ちょっと待てよ、、、、、と。
今のその人の現状から、一気に「自己肯定感を高めよう!」「今よりも強くなろう!」「自信をもって新しい自分に出会おう!」的な話に飛び込むのは、これはこれで危険度がかなり上がってしまうのを最近、痛感しております(-_-)
誰でも時として迷い、自信を失い、そんな時は周りの目が気になったり、本来あるべき自分の価値さえ見失っちゃって・・・もう、自分、ダメかも・・・・と、不安は不安を呼びます。
後から考えると、
「なんであんなちっちゃな事で悩んでいたんだろう。」
なんて思えるのはまだ幸せな方で、下手すればとことんまで落ちて取り返しのつかない場所まで行っちゃう人もいれば、行く予定がなかったのに一人ポツネンと孤独になって、普段考えないことをいろいろ考えちゃう事ってありますよね~・・・・・。
「これはどういう意味なのでしょうか?神様は一体、わたしにどうしろと・・・?」
この誠意と向上心がある質問にたいして、
「これは○○って意味で、ここを、こう変えればもっと生きやすくなるって神様が言ってます。」
と答えた結果、
「なるほど~。だったら、もっと”こうしなさい”って事ですよね?」
「話は分かりました。でもですね、いつも自分はこう心掛けていて、でも、○○で・・・」
まったく問題ない返答なのですが、時々、「ん・・??あれ・・・?」と違和感を感じてしまう。前者は、返ってきた答えが明後日の方向に走っていたり、後者は結局、言い訳に近いものしか感じない。
何かがすんなりと伝わってない感。これは何だろう・・・・・・
ここでこちらの真意を妨げる分厚い壁が『自己肯定感を大切にしたい』という、ご本人の気持ち・・・というパターンが最近、多くみられます。
自らが自分と向き合う、「自己分析」を行い今の原因が「自己肯定感の不足」に辿り着いた時、その人は生きる為に(問題解決の為に)「自己肯定感の向上」を目指します。
問題があって、その原因が「自己肯定感の不足」とはっきりして、問題解決のために「自己肯定」を使っている内は否定することはないのですが、、、、
そもそも『自己否定感(自信がない、どうせ出来ない、もう無理、自分が嫌で嫌い、生きているのが嫌・・・等)』が強い人に対して、頑張ってその人が「自己肯定」を求めたり、人から強制されても実際は何の解決にもならない。と感じています(-_-)
解決どころか、自己否定と自己肯定の綱引きは、ドンドン本来の問題から遠のいていく。
乱暴な言い方になりますが、「自己肯定」は「自己否定」の特効薬でも何でもありません。
自己肯定感は自分で作るもの、与えるものではなく ”自然と湧きあがってくるもの、感じるもの”。がそれだけには限りませんが、本来は自然ではないでしょうか?
「自己否定」→「自己肯定」
の間に、
「自己否定」→『自己受容』→『努力・改善・工夫』→「自己肯定」
が正しい順番です。
たとえば、100点満点のテストで70点を採った人がいます。
「自分はテストで70点だった。別に悪いことではない。」
と自分に言い聞かせるのが「自己肯定」とするならば、
「自分はテストで70点だった。まずはこれを受け入れよう。」
これが「自己受容」。
極端に傷つくことを恐れず、冷静に受け止められればこれほど簡単なことはありません。
語彙不足の為、すっげー微妙なニュアンスなんですけどね(^_^;)
どっちにストレスが溜まるかは一目瞭然ですし、また正しく自己受容を積み重ねていけば次のテストでの向き合い方なんかも変わってくるのではないでしょうか。
最近、子どもに対して自分が気をつけていることは、「自己肯定感だけを植え付けない」こと。
親心として、(今となっては)誰でも経験するような小さな失敗ごときで子どもに完全に自信を失って欲しくない、挑戦に対して恐怖を覚えて欲しくない・・・という気持ちが強く働きすぎて、「自己肯定感」を与え過ぎてはいないか?
失敗は誰でも嫌ですし、スマートに成功して親に褒められたい、気持ち良い感覚を味わいたいと子どもは純粋に無邪気に思い、これも無意識に「自己肯定の呪い」を時々、嘘をついてまで自分で掛けたがります(笑)
成長過程ではそれも必要なことですし、完全な「自己否定感」に浸りきるまでの「自己受容(正しい客観視)」までの”間に合わせ”として、「自己肯定」を使うのは意味のあることですが多少時間を使っても「自己受容」をいずれ味わうまではトコトン付き合います。
・・・一緒に結果を受け止め、次はどうすれば良いのかを一緒に考える。
子育ての場合、この「一緒に」と「時間」がすごく重要です。
子どもが「完全な自己否定」に入りかけの瞬間、与えられるだけの「自己肯定(この場合、他者肯定?)」を与えてしまう親。親の方が経験豊富な分、敏感なんですよね。
子どもはただでさえ心の処理能力に時間が掛かりますがそれに痺れを切らして、
「・・・もう、お母さん知らんけんねっ!!!」
・・・と一気に突き放す・・・・これね、学校行事にいけば大抵、1回や2回は見れられる光景です(^_^;)
後輩に物を教える時もそう。
「もうこの失敗3回目やね。どうしたら良いのか一緒に考えようか?」
「わたし思うんですけど、これがそもそも・・・でも、これが実はこうなっててですね・・・・」
いやー話が長い、長い(笑)一気に自己正当化でバリアを張ってくるのはまだ良い方(分かりやすい方)で面倒なのが遠回しに言い訳しか言ってこない人。とにかくよく喋る。
そこまで考えつくのなら、行動する前にもう少し考えてくれよ。って話になります。
自分自身もそう。
誰かを傷つけた時。誰かに嫌われた時。自分が傷ついた時。
事実をきちんと受け止め、その原因を自分の中ではっきりさせて次に繋げようと考える前に・・・やはり時間が必要な時もありますし、おもわず根拠のない「自己肯定感」で心を埋めようとする、心の傷を最小限に留めようとする時もあります(-_-)
認めるまでに時間が掛かるんですよね、、、しかも不思議なことに、引っかかる場所はいつも同じ場所(苦笑)
自己受容をジッと行える人は本当に強いと思いますし、その支えになっているのは今まで積み上げてきた「自己肯定」です。
真面目で繊細で、傷つきやすい人・さんざん傷ついてきた人ほど掛かりやすい、『自己肯定の呪い』。
自己肯定そのものは決して悪い存在ではございませんが、心の自己防衛の一つとして存在しているという事を自覚しておいて損はないと思います(^_^)
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